寛永15年(1638)に「島原の乱」が起こると、徳川幕府はキリスト教を禁制し、同16年(1639)に宗門改めの政策により踏絵が実施されました。踏絵を行う場所は度々変更しましたが後に豊前国企救郡に於ける踏絵は、西生寺で行われるようになりました。 踏絵は毎年3月3日頃に実施され、幕末の文久3年(1863)まで続きました。明治の初め頃まで当寺山門横に、『判行寺』と刻した石碑が建てられていました。 判行寺とは、踏絵寺のことで、15歳以上60歳までの男女を対象に、行われていました。